塩引鮭やいくら、酒びたしが紹介されました

村上の略年表

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村上の略年表

村上の鮭漁

村上の鮭漁

年号 西暦 主な事柄
大化4年  648 大和朝廷の対蝦夷政策のため磐舟柵が作られる
保安4年 1123 右大臣中御門(藤原)宗忠が領していた荘園越後小泉庄(現村上周辺)を、その長子宗能に譲る。
永万1年 1165 瀬波川(三面川)の鮭漁について院宣がでる。その意とするところは、「瀬波川は国領であり、領されるは、国家への大切な貢納物である。城太郎資永(奥山庄・現中条周辺の人)が濫行しているようであるが、それを停止させよ。もし命令に従わなければ、罪科に処すべし」とのことであった。
建長7年 1255 秩父行長が鎌倉将軍(北条)の地頭として当地に移り小泉氏或は本庄氏と称する。
応永1年 1394 傑堂能勝(楠氏)耕雲寺を創建する。
天文4年 1535 文書に村上の地名初めて見える。
栄禄11年 1568 栄禄11年3月、本庄繁長、甲斐の武田信玄と結託し上杉謙信に叛き、本庄城に篭もる。謙信手勢を引き連れ攻撃するが落城せず。伊達、葦名の仲介で和議が成立し、同12年3月遂に繁長は謙信に降る。
天正16年 1588 繁長、最上義光の一族、東禅寺右馬頭等と庄内の十五里ケ原で戦い大勝し、庄内地方を手中に納める。
慶長3年 1598 上杉影勝が会津へ移封になると、村上には、豊臣秀吉の命を受けた村上勝頼が加賀小松から移ってきて、城下町を造り替える。
元和4年 1618 村上氏は家中騒動のため城地を没収され、当主の忠勝は、丹波篠山へ流刑となる。その後、堀直奇が越後長岡より転封されるが、直奇は更に城郭を拡充し城下町を広める。
慶安2年 1649 松平直矩が播州姫路から移ってくる。この時三条町など村上藩領となり、村上は15万石の越後国きっての雄藩となる。
元禄2年 1689 俳人松尾芭蕉が、奥の細道の途中村上の久左衛門方に二泊し榊原帯刀家を訪れ光栄寺や浄念寺などに参詣する。
享保5年 1720 内藤弌信入封以来、内藤家150年続く。
慶応4年 1868 村上藩、奥羽越列藩同盟に加入し、与板方面で戦う。(5月)藩兵城を焼き、庄内へ走る。(8月)
明治2年 1869 藩主内藤信美、藩籍を奉還、江戸時代の初めより村上、堀、本多忠義、松平、榊原、本多忠孝、松平輝貞、間部、内藤と続いた城下町も、明治4年になり村上県となり、やがてその年の11月には新潟県に合併され、近代社会への歩みを進めた。

村上市郷土資料館より

鮭の村上…小泉の庄

村上の鮭|鮭と越後村上の関わり 塩引鮭は郷土村上の逸品

越後村上は平安の昔、小泉の庄と呼ばれ、中御門大納言家(藤原氏)の荘園であり、村上を流れる三面川の鮭も、この頃より都に献上されておりました。

古代、越後からの税は「鮭」でした。
平安時代の中期法典「延喜式」には越後国が納める物品が記されています。

主計式 上 越後国
調 自絹十疋 綿 布(麻布),鮭
庸 白木唐橿十合(衣類、調度品を入れる希) 自余輸狭布,鮭
中男作物 布 紙 漆 鮭内子并子 氷頭 背腸
内膳式 贅殿年料
越後国 楚割鮭八籠八十隻(尾) 鮭児 水頭 背腸各四麻笥 各一斗

越後からは、調・庸として鮭、中男作物として鮭内子并子・氷頚、背腸
年料貢進御贄として楚割鮭(すはやりざけ)、鮭児・水頭・背腸を、
佐渡からは、中男作物として鰒、御贅として穉海藻(わかめ)を責進しておりました。

村上の三面川と鮭

村上の鮭|鮭と越後村上の関わり 塩引鮭は郷土村上の逸品

朝日岳を流れの源とする村上の三面川の清流は、全長41キロ。越後平野をゆったりと流れ、ここ村上で日本海に注ぎます。村上の鮭を語るに越後村上の「三面川」(みおもてがわ)をさけては通れません。 三面川(瀬波河)の鮭のことが出てくる最も古い資料とされるのが次の資料です。
平安時代 長寛三年(1165年)越後国司から出された「国宣」の起案文書の部分
「但於瀬波河者 有限国領也 就中漁鮭為重色済物 庄家不可成妨」
「但し瀬波河に於いては有限の国領なり。とりわけ鮭漁は重色の済物となす。庄家(庄園の役人)は妨げなるべからず。」                              「新潟県史 通史編1 原始古代 より

鮭は川にのぼって産卵し、孵化した稚魚は海に下って成長します。そして3・4年荒波にもまれ成魚となり、一万数千Kmもの長い旅をして秋、産卵のためにまたふる里の川に戻るという習性をもっています。川にはそれぞれ土地固有の有機物・無機物が溶け込んでおり、鮭は臭覚で自分の生まれた川を識別していると言われています。

三面川 約250年前、この「母川回帰性」を世界で最初に発見したのが村上藩士 『青砥武平冶』(あおとぶへいじ) でした。そしてその後、鮭の自然孵化増殖システム「種川の制」を考案し村上の鮭文化の礎を築きました。種川というのは川の中洲に鮭が産卵する条件に合うように掘って作った川で、鮭の増殖に大きく貢献しました。

帰ってきた鮭が安心して産卵できるよう、三面川の本流をバイパスする河川を作りふ化を助けます。また春、3月になってサケの稚魚が海に帰る季節に川の漁を一切禁じ、川を下る鮭の子を保護しました。まだ誰も「鮭の増殖」など考えもつかなかった時代に、世界初の、「サケの天然繁殖システム」を考案し、三面川にのぼる「鮭の数」を飛躍的に増やすことに成功しました。

青砥武平冶以来、「種川の制」によりサケは次第に増え、豊漁がつづき、村上藩に納める運上金も最初は40両程度でしたが、1800年頃には1000両を超えるまでになりました。
これが村上藩の財政に寄与いたしました。

江戸時代にこのように積極的に、鮭の増殖に力を入れた川は、外にはありません。その後村上では、明治11年アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の人工孵化に成功。減少していた鮭の遡上数も、明治17年に73万7千378尾を記録するまでに増えました。これは、単一河川では日本の最高記録になっています。

獲れた鮭から採卵をして、白子をかけ受精させ、育養所と県の孵化場で育てたり,県内の各孵化場に受精卵を送るなど、三面川は文字通り県内の鮭の親川と言えます。現在、鮭の遡上数は2万9千24尾で放流数800万尾ですので回帰率は0.2~0.3%となっています。

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